世田谷での国士舘のはじまりには、校地の東に隣接する松陰神社の存在が大きく影響しています。

①国士舘の創立と「松陰」 -- "吉田松陰"は維新の象徴!

1917(大正6)年、国士舘の創立に際して、運営母体の青年大民団は、社会の改善?変革を目指し、その礎となる人材育成を理念に掲げました。それは吉田松陰が主宰した「松下村塾」のように、教育によって新たな社会を創ることでした。松陰を明治維新の象徴として捉え、設立趣旨に「大正維新の松陰塾」と謳い、国士舘は麻布区笄町(現?港区南青山)に創立しました。
翌年11月、大民同人たちが先人を顕彰する「国士祭」を松陰神社で催した折に、宮司から隣接地を教育の場に勧められました。この時、松陰を祀る世田谷の地こそ、国士舘の教育理念にふさわしいという思いから、吉祥寺への移転計画を急遽中止して、1919(大正8)年に世田谷の現在地へ移転しました。

国士舘落成式(1919年11月)

②「松陰」顕彰と景松塾建設 -- 模造松下村塾を国士舘が建設

1938(昭和13)年、吉田松陰の顕彰のため、校長尾高武治が発起人となって、山口県萩市の松下村塾のレプリカが校内に建設されました。建設には、職人から建材まですべてを萩で集め、旧長州藩代官屋敷の木材や屋根瓦を譲り受けて、精巧に模造しました。さらに柱の刀傷や建物土台の丸石に至るまで、本物の松下村塾とまったく同様にして、国士舘へ運ぶこだわりようでした。建物は「景松塾」と呼ばれ、成績優秀者のための特別講義などに使用されましたが、1941(昭和16)年に松陰神社へ寄贈?移設されました。2017(平成29)年には改修工事が行われ、現在も大切に保存?公開されています。

模造松下村塾「景松塾」(1940年1月頃)

③世田谷の松陰神社 -- そもそも吉田松陰とは?

松陰神社に祀られる吉田松陰は、文政13(1830)年に長州藩萩城下松本村(現?山口県萩市)に生まれ、安政6(1859)年、討幕論を唱えて安政の大獄に連座して29歳で刑死しました。安政4年からは、私塾「松下村塾」を主宰し、身分の隔てなく広く教えを説きました。松陰が教鞭を執ったのはわずか2年あまりでしたが、木戸孝允?高杉晋作?久坂玄瑞?伊藤博文など、幕末?明治に活躍した門人を輩出しました。
松陰の遺骸は、小塚原の回向院別院(荒川区南千住)に埋葬されましたが、文久3(1863)年に高杉晋作らによって長州藩毛利家の抱屋敷のあった世田谷の地に改葬されました。翌年、長州討伐のため幕府により抱屋敷は没収、松陰らの墓も破壊されましたが、1868(明治元)年、恩赦を受けて墓は再建され、1882(明治15)年には松陰の門人らにより松陰神社が建立されました。境内には松陰の墓のほか、来原良蔵?福原乙之進?綿貫次郎輔?中谷正亮ら幕末の長州志士の墓や、木戸孝允?伊藤博文?山縣有朋ら門人により寄進された燈籠?鳥居があります。

松陰神社鳥居(2019年)
吉田松陰他烈士墓所(2019年)